阿射加神社(小阿坂)~三重県神社巡りの旅<4>

 今回の三重県神社巡りの旅は阿射加神社(地図)が最後となった。
 ただ、阿射加神社は小阿坂と大阿坂の2社があって、最初に訪れたのは小阿坂の方だった。
 この2社の関係が今一つよく分からなかったのだけど、行ってきたあとも相変わらず理解できない部分がある。
 ちょっと不思議なのは、2社の距離は1キロも離れておらず、両社とも社殿が東を向いていることだ。
 もともと山頂にあったものを里に降ろしたという話なので、その山が西にあって、それで社殿が東向きになっているのかもしれない。
 正面入り口もどこなんだろうと探してしまった。
 どちらも車で行くとなかなかややこしいところにある。
 鉄道の場合は最寄りの名松線「上ノ庄駅」(地図)から歩くと1時間くらいかかると思う。


 小阿坂、大阿坂とも独自の祭りや風習が伝わっていることからも古い神社ということがうかがえる。


『延喜式』神名帳(927年)に、「伊勢国壹志郡 阿射加神社三座」(名神大)とあり、小阿坂、大阿坂ともに論社とされる。
 通常、三座というのは一社で三柱の神を祀っているということなので、阿射加神社としては一社だったということになる。
 しかし、小阿坂、大阿坂ともにごく近い距離に位置しており、なおかつ同じような性質の神社だったことから両社ともに論社とされてどちらか一方には決めかねたようだ。
 では三座の正体はというと、これは古くか諸説あったようではっきりしない。
 現在、小阿坂の阿射加神社は猿田彦大神、伊豆速布留神、竜天大神を、大阿坂では猿田彦大神、伊豆速布留神、底度久神を祭神としている。
 猿田彦大神が出てくるのは『古事記』の記事によるものだ。

 猿田毘古神は天孫の瓊瓊杵尊を導いた後、天宇受売命に故郷の伊勢まで送り届けてもらい、阿邪訶(あざか)で漁をしているときに比良夫貝(ひらふがい)に手を食われて溺れ、そのまま海の底に沈んでしまったとある。
 この”あざか”つながりで阿射加神社の神が猿田彦大神とされたわけだけど、神社は海からだいぶ離れた内陸だから、ここが阿邪訶の現場というわけではない。
 猿田毘古神が底に沈んだときの名を底度久御魂(ソコドクミタマ)、泡になったときの名を都夫多都時(ツブタツミタマ)、泡がはじけたときの名を阿和佐久御魂(アワサクミタマ)というと『古事記』にあり、この神名を三座として祀ったのではないかとする説もある。

 こういった『古事記』の話とは別に神社の由緒では違う話が伝えられている。
『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』によると、倭姫命が藤方片樋宮で天照大神を祀っていたとき、阿佐加之弥子(阿坂の峰)に伊豆速布留神(イツハヤフル)が通行の邪魔をして困らせていた。垂仁天皇が神宮外宮の社家の度会氏の祖である大若子命(オオワクゴ)を遣わせて山上で祈ったところ、伊豆速布留神が鎮まったため、それが神社となったという。
 ここでは猿田彦はまったく登場せず、本社で祀られる伊豆速布留神と大若子命の話になっている。
 大若子命は摂社で別に祀られている。
 中世以降は龍天明神などと呼ばれていたようで、やはりもともとは猿田彦とは関係のない山や水の神という性格の神社だった可能性が高い。
 伊豆速布留神がこの地の地主神だったとすれば、はじまりは伊豆速布留神を祀る神社だっただろうか。
 ただ、平安時代までには三座となっていることから、更に別の話も隠れているのかもしれない。

 いずれにしても、よく分からないというか、釈然としないものが残った。


 ここも森感が強い神社で、多くの木々に取り囲まれている。
 この頃には雨が強くなって、境内全体がしっとりと濡れた雰囲気になった。
 晴れて光溢れる神社が好きだけど、雨には雨のよさもある。


 伊勢の神社で太鼓橋はあまり印象にないのだけど、私が他を知らないだけだろうか。


 手水舎ではアマガエルが出迎えてくれた。
 カエルといえば無事帰るということで猿田彦にもゆかりがある。
 二見の興玉神社には多くのカエル像が置かれている。



 大若子命は記紀などには出てこない。
 初代伊勢国造の天日別命(アメノヒワケ)の後裔とされるも、その実在は定かではない。
 ただ、加賀国石川郡の式内社御馬神社の祭神が大若子命とあることから、度会氏が作り出した架空の人物とも決めつけられない。
 阿佐加で伊豆速布留神を鎮めたという伝承からしても、そのモデルになった人物がいたのではないかと思う。


 残すは大阿坂の阿射加神社のみとなった。

 つづく。


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