
三重県神社巡りの旅、第3回は多気郡多気町仁田にある佐那神社編(地図)です。
父方の生家が多気郡勢和村丹生で、佐奈の地名は子供の頃ならよく聞いていて馴染みではあったのだけど(佐奈のおばちゃんみたいに)、実際佐奈に行ったことはなかった。同じ多気郡でも丹生からは少し離れている。
だから、佐那神社を訪ねるのもこのときが初めてだった。実はけっこう嬉しかった。
向かう途中の車中から勢和村の入り口や丹生大師を見ることができたのも感慨深かった。
もうずいぶん訪れていなかったので。
佐那神社は思っていた以上に立派だった。
県社だったのも訪れて初めて知った。
出向く前の知識として、延喜式内社で、天手力雄神を祀っているということは把握していた。
佐那那県に坐すのあの佐那だ。

参道も非常に雰囲気があっていい。
この前に訪れた瀧原宮にも少し似ている。
やはり、伊勢の神社には伊勢感みたいな共通する空気感や様式といったものがあって、それは他にはない独特のものだ。名古屋や尾張とは全然違う。

夫婦杉。
この日巡った神社はどこも巨木の森だった。
巨木も街中ではなかなか残りづらい。

涸れかけた池。
しばらく雨が続いてこれだから普段は完全に乾いているのかもしれない。


駐車場の関係で横入りだったので、いったん南の鳥居から出て入り直した。
正面から入らないとなんとなく気持ちが落ち着かない。
このすぐ南を佐奈川が流れていて、その南を国道42号線が通っている。この道は旧熊野街道だ。
南鳥居から参道を進んで左に折れて、もう一度左に折れた先に拝殿が建っている。
ちょっと変わった造りで、昔からこうだったとは思えないのだけどどうなんだろう。
北東に佐奈小学校があるので、かつてはそこを含めてもっと広大な境内地を有していたのではないかと思う。

ここの杉もねじれている。

天手力雄神といえば、天照大神が天岩戸に隠れてしまったとき、顔をのぞかせた天照大神の手を取って引っ張り出した神として日本神話で描かれる。
『古事記』では天孫降臨した邇邇芸命に随伴した神の一柱とされ、「手力男神者、坐佐那那県也」と書かれている。
これが佐那神社で天手力雄神を祀る根拠となっているのだけど、この佐那神社が延喜式神名帳(927年)に載る佐那神社とされたのは江戸時代中期の1724年(享保9年)ということで、少し疑惑というか疑問は残る。
近世には中の宮や大森社と呼ばれていたという。
ただ、このあたりを古くから佐奈といっていたことや、その中で氏神といえるこの神社がそれに当たるだろうとしたのは妥当といえる。
延喜式神名帳には「佐那神社二座」とあり、古くから二柱の神を祀るという認識だったようだ。
一柱は天手力雄神でいいとして、もう一柱については諸説あったようで、現在までに曙立王(アケタツノオオキミ)ということで決着している。
天手力雄神は伊勢の神宮では内宮の相殿神として万幡豊秋津姫命(ヨロヅハタトヨアキツヒメ)とともに祀られているのだけど、ここ佐那神社は外宮とのゆかりが深いようで、式年遷宮で出た古材をもらいうけて建て直しが行われてきた。
現在の佐那神社は天手力雄神と天鈿女を前面に出してきている(顔出しパネルも用意している)のだけど、これは明治末の神社合祀政策で合祀された神社の中に天鈿女を祀る神社があったためだ。最初から天鈿女だったわけではない。

拝殿、本殿が横並びになっていて、左が佐那神社で、右が和玉神社となっている。
和玉神社は佐奈にゆかりの戦没者などを祀るために昭和27年(1952年)に建てられた。

佐那神社の本社を撮り忘れたらしい。

曙立王について少し補足を。
大俣王の子で、兄弟に菟上王(ウナカミノオオキミ)がいる。
伊勢の品遅部と佐那造の祖とされることから佐那神社の地主神として祀られたようだ。
『古事記』によると、唖(おし)の本牟智和気王(誉津別命)が呪いを解くため出雲国へ行く際、占いでお供に選ばれたのが曙立王だった。
垂仁天皇は曙立王に倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらのあけたつのおおきみ)という名を与えたという。
兄弟の菟上王も一緒に出雲国に向かったとされる。
『尾張国風土記』や愛知県一宮市の阿豆良神社の由緒で、口がきけない誉津別皇子の話が出てくる。
伊勢湾沿岸を一帯の地域として捉えたとき、何かしらの関係性が見え隠れする。
佐那神社はなかなかよかったし、佐奈という土地に立てたことが個人的には一番の収穫だった。
天手力雄神にも少し近づけたような気がした。
つづく。

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