
豊田市寺社巡り第6回は、保見町にある射穂神社(地図)です。
射穂神社は”いぼ-じんじゃ”と読ませるのだけど、ここはかつて高橋庄伊保郷といっており、”伊保”の方が表記は古いかもしれない。
なかなか理解が難しい神社で、簡単には説明できない。
なので、神社の由緒を丸写ししておく。
古伝に三河国賀茂郡高橋の庄伊保郷開発和銅6癸丑歳改むとあり村名射穂とも又伊穂とも書き、後に伊保村、御獄市場を合して上伊保と称す。
神社地は藩政時代城主の戦國地と称せるも火災焼失多くありたるため鎮座地を池之坊洞より御獄山頂に移し、また三祖山に移し明治維新の際北山と改称す。
境内地 1170坪 祭神 左相殿 春日山田皇女 中殿 安閑天皇(廣國押武金日尊)右相殿 神前皇女 延喜式内3132座の内三河国加茂郡伊穂之神社祭神蔵王大権現とあり通称伊保天神とありしを享保年間より蔵王宮と称し、その後射穂神社と改称せり。
和漢三才図絵に言ふ蔵王大権現祭神は不祥なるも社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願のために白鳳年間御即位に神社御建立とあり古代の創建なること知るべし。
明治5年8月郷社に列せらる。明治43年末社八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀す。
昭和18年8月県社昇格の申請を了し社格昇格の内定を得しも大東亜戦争終息により無に帰せり。
(中略)
特殊神事には鎮火祭、御粥占豊年祭あり。
例祭には奉納献馬棒ノ手、空砲等の行事を慣行し氏子下各村提灯をもって参拝する例ありし。
(後略)
創建は飛鳥時代の672年(和銅6年)といっている。
これは古代最大の内戦となった壬申の乱が起きた年だ。
社伝がいう「清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願のために白鳳年間御即位に神社御建立とあり」ということを信じるのなら、清見原は大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子を征伐するための祈願所として創建したのが始まりということになる。
しかし、中世には蔵王権現を祀っていたこととこの話がつながらず、そのまま信じない方がいいかもしれない。
現在の祭神となっている安閑天皇(廣國押武金日尊)は継体天皇の第一子で、母は尾張草香連の女の目子媛で、尾張にゆかりが深い。
ただ、安閑天皇は中世に蔵王権現と習合したから、祭神とされたのは明治以降だろうと思う。
そうなると、春日山田皇女と神前皇女がいつから祀られていたのかということになるのだけど、もし中世からすでにこの三柱だったとすると、ちょっと話がちがってくる。
春日山田皇女は安閑天皇の皇后で、神前皇女(カンサキノヒメミコ)は安閑天皇の異母妹に当たる。
この組み合わせ祀られている例は他に知らないので、かなり特殊だと思う。
どうして尾張や天皇家に関係する神社が西三河のこの地にあるのかは謎だ。
社名であり郷名の”いぼ”はどこから来ているのか。
”いぼ”といえば揖保乃糸。あれは兵庫県、かつての播磨国だ。
播磨というと億計王と弘計王の兄弟、『真清探當證』で二皇子は尾張の一宮、そして越前の継体天皇につながる。
継体天皇の子が安閑天皇、宣化天皇。
春日山田皇女の春日山田は尾張の春部郡、山田郡につながるという説もある。
何か壮大な歴史が秘められているのかもしれない。
蔵王権現でいうと、吉野と大海人皇子がつながる。

灰寶神社も神紋が三つ巴だけど、ここもそうだ。
”三”が何かキーワードとなっているだろうか。
単に三河の三というだけではないだろう。

全景はなんとなく寺っぽい。

舞殿型拝殿は明治に熱田神宮から移したものだそうだ。
そんなところにも尾張との強いつながりを感じさせる。


瓦の紋は二つ巴になっている。

途中に保見神社の社号標と鳥居が建っている。
境内社というには独立感が強いのだけど、行ってみるとなんだこれとなる。

社殿はなく、石碑だけが建っている。
もともと社殿があったような感じでもないから、ここは本体ではないのか。
いかめしいというと言い過ぎだけど、厳かな感じがある神社だ。
そのへんの村の神社とは格が違う。
場所が何度か移されているようだから、もとの姿ではないのだろうけど、それでも威厳は保っている。
祭神の組み合わせや歴史に関しても興味深い。更に深掘りすれば何か出てきそうだ。
【アクセス】
愛知環状鉄道「保見駅」より徒歩約22分
【駐車場】
あり

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