豊田市神社巡りは毘森神社から

 みよし市の黒笹を後にした我々一行は豊田市方面へと向かい、最初に訪れたのが毘森公園内にある毘森神社(地図)だった。

豊田市神社巡りはみよし市の黒笹八幡からスタート

 毘森神社を最初は読めなかった。
 ”こんもり”じんじゃ? いや、違うなぁと。
 毘沙門天の毘だけど、これで”ひもり”とはなかなか読めない。
 音読みだと”ビ”だけど、”ひ”と読む例もあるんだろうか。
 社名が先か、地名が先か、別のところから来ているのか、音が先でただの当て字なのか。
 よく分からない。
 ただ、何か意味ありげな名前ではある。


 由緒書によると、祭神は弥津波能売命(ミツハノメ)とのことだ。
 何か水に関係しているのだろうか。
『古事記』では伊邪那美命(イザナミ)が火の神迦具土神(カグツチ)を生んだ際に陰部を火傷して苦しんでいるときに尿から生まれたといっている。
 続けてこう書いている。

 文治建久の頃(1189)源義経の家臣篠田源之進勝善が鈴木重善(善阿弥)鈴村義宗とともに当地に来て大和吉野から毘森明神を勧請して衣山之郷(西町附近)の総鎮守として旧字薬師(西町)に創建した。
 その後水害により小坂町11丁目(旧大字挙母字野田迫)に移る。
 またその後7町の庄屋百姓代が三河代官鳥山牛之助に願い寛文6年1月晦日堂浄山現在の童子山小坂本町5丁目(旧大字挙母字毘森)に移ることが許され東西70余間南北18余間与えられ古社地は除地された。
 其の後内藤侯が新城築城のため敷地に境内がかかるので安永10年(1781)現在地に遷宮した。
 明治6年(1863)額田県によって挙母神社に合併されたが同8年(1875)社殿本殿を復旧し無社格となる。
 昭和28年(1953)宗教法人法にとなる。
 昭和60年(1985)従来の社殿老朽の為ご造営した。

 分かるような分からない話だ。
 吉野の毘森明神とは何なのか。昔も今もそんな神社はなかった気がするけど私が知らないだけか。
 勝手明神の本地仏が毘沙門天だったから、そのことと関係があるのかもしれない。
 それと、ここで義経の名前が出てくるのも唐突だ。
 義経家臣の篠田源之進勝というのも知られていない人物だし、鈴木重善や鈴村義宗というのも一般的な知名度はない。
 それにしても、1189年に創建というのはすごく怪しい。
 というのも、義経は兄の頼朝と対立して、この頃は奥州平泉に逃げている時期だからだ。この年の4月30日(新暦では6月15日)に平泉で亡くなっている。
 そんな主君が生きるか死ぬかというときに、吉野とも平泉ともまったく関係のない三河国の片隅に家臣達が神社を建てたりするだろうか? 普通そんなのんきなことはしない。
 ここだけ取っても、この創建話はかなり怪しい。

 その後、あちこち遷座しているので、当初の状態や状況を保っていない。
 現状、なかなかいい神社だとは思うけど、鎌倉時代といった古社臭さのようなものは感じられない。
 ただ、この毘森公園一帯はなんとなく遺跡の匂いがする。
 土地として重要なところかもしれない。


 熊野大社ゆかりの梛(ナギ)の木が植えられている。
 熊野古道にある梛の大木から苗木をもらってきた成瀬さんが庭で22年育てたものをここに植え替えたらしい。
 成瀬というと犬山城主の成瀬家を思うけど関係があるだろうか。


 手水の龍像に虫が止まっていた。
 カミキリムシかと思ったけど触覚がない(見えない)からタマムシだろうか。
 ちょっと分からなかった。


 社殿はなかなか立派だ。
 周りを塀で囲うのは古い尾張造の特徴なのだけど、ここにはその名残のようなものがある。
 しかしながら、白と黄色のコントラストはなかなか斬新なデザインだ。他ではちょっと見たことがない。


 この日回った神社は舞殿型の拝殿を備えているところが多かった。
 西三河には多いのか、たまたまだったのか。


 殉国碑も立派なもので、何故か狛犬が置かれている。
 殉国碑と狛犬の組み合わせは珍しい気がする。
 明治天皇の御制(ぎょせい)の歌が刻んであり、見えている鳥の像は鳩だった。


 こうして見ると、けっこう高台にあることが分かる。


 戦後間もない昭和20年代に開園した毘森公園は、野球場やテニスコート、プールなどを備えた市民の憩いの場となっている。

【アクセス】
 愛知環状鉄道「新豊田駅」より徒歩約16分

【駐車場】
 あり


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