サワサワ安弘見神社

 なんだろう、ここ。
 なんだか、サワサワする。
 境内を何かが蠢いている。
 少し息苦しい。標高の高いところに来ているみたいだ。

 何かに取り憑かれそう。

 独り言のようにそうつぶやいた。

 なんというか、すごくしんどい神社だ。
 体調を崩しそう。

 ここにいるのは神とかではない。
 物の怪のたぐいでもなく、古い亡霊のような何かだ。
 南朝の残党か、和田一族か。
 無念なのか怨念なのか、何らかの強い念がどこへも行けずに留まっているみたいな感じがした。
 気のせいとするにはその感覚は強すぎた。

 数時間後、この感じがただの思い込みや妄想ではなかったと思わせるちょっと不思議な体験をすることになる。







 恵那・中津川遠征で恵那神社に続いて訪れたのがここ、蛭川(ひるかわ)の安弘見神社(地図)だった。
 これで”あびろみ”と読ませる。初見で読むのは無理だ。
 かつてこのあたりを安弘見郷と呼んでおり、そこから社名が付けられたという。

 京都の観慶寺感神院持祇園社(八坂神社/公式サイト)から奥野田に勧請されたのが始まりというのだけど、個人的にその伝承は信じない。
 この神社はそういう性格の神社ではない気がするし、それほど新しいとも思わない。もっと違うルーツを持つ古い神社の気がする。
 奥野田というのがどこなのか気になったのだけど、調べがつかなかった。蛭川村の村内だろうとは思う。

 正長元年(1428年)に尹良親王(ゆきよししんのう)とともに蛭川へ逃れて来て住みついた南朝方の和田政忠の子孫が、和田政通の十回忌の際に現在地に遷座させて和田一族の御霊を合祀したという話がある。
 これに関しては事実そのままではないにしても、大筋としてはあり得ることだとは思う。
 ただし、尹良親王をどう考えるかという問題がある。

『浪合記』や『信濃宮伝』といった軍記に登場する南朝の皇族で、公式記録にはないことから架空の人物とされることが多い。
 南北朝時代の南朝の後醍醐天皇の孫で、父は宗良親王(むねよししんのう)という。
 宗良親王は実在の人物で間違いない。
 父である後醍醐天皇による建武の新政が崩壊した後、父とともに大和国吉野に逃れ、南朝方の中心の一人として活躍したとされる。
 1338年には義良親王(のりよししんのう/後の後村上天皇)とともに北畠親房(きたばたけちかふさ)に伴われて伊勢国大湊へ行き、陸奥国府へ渡ろうとするも船が座礁して遠江国に漂着し、井伊谷の豪族・井伊行直のもとに身を寄せることになる。
 井伊谷(いいのや)は今の静岡県浜松市で、この井伊は女城主・井伊直虎や井伊直政などの祖先に当たる人物だ。
 尹良親王は井伊道政の女(むすめ)と宗良親王の間に生まれた子で、父・宗良親王の倒幕の遺志を受け継ぎ、東国を転戦したという。
 その存在は創作上のキャラクターでしかないする一方、いわゆる”ユキヨシ様信仰”といったものが伊那谷から北三河、北遠江にかけて色濃く残っているという事実もある。
 伊那郡阿智村浪合で戦死したという話もあり、塚と伝えられる円墳は尹良親王墓とされ、宮内庁によって治定されてもいる。
 その他、笠置町毛呂窪や中津川市高山などにも伝承があり、ここ蛭川もそのうちの一つということになる。
 愛知県豊根村には尹良親王の銅像まであるくらいだから、もはや既成事実化されてしまっている感もある。
 面白いというか興味深いと思ったのは、妻が世良田政義の女(むすめ)という話だ。
 世良田政義も記録には表れないので架空とされるのだけど、世良田というと徳川家康の影武者で途中で入れ替わったとされる世良田二郎三郎元信を思い出させる。
 伊那谷というと井伊だけではなく真田や今川も関わってくるし、牛頭天王の総社は京都の祇園社ではなく尾張の津島牛頭天王社(公式サイト)で、安弘見神社の神紋の木瓜紋(もっこうもん)は津島社/祇園社の神紋であり、織田信長の家紋でもある。
 このへんの関連というか絡まりがぐるぐる回って目が回りそうになる。
 鍵を握っているのは、やはり南朝なのだ。
 南朝、北朝の話はわりとデリケートでうかつなことは書けないのだけど、現在の天皇家は北朝とされていて、今後何らかの形で南朝系の天皇が誕生したとき、時代は大きく転換することになるかもしれない。

 慶長19年(1614年)、蛭川村の初代庄屋と二代庄屋の井口又左衛門と吉助を願主として八龍権現と記された棟札が残っているそうで、これはけっこう気になるところだ。
 八龍系の神社は名古屋にも何社かあって、八龍信仰といったものがあったのは間違いない。
 八大龍王のことなのか別なのかはともかくとして。
 江戸時代前期の安弘見神社を八龍権現と呼んでいたのかどうかについては断定的なことはいえない。
 江戸時代後期には牛頭天王社と称していたのは分かっていて、明治の神仏分離令を受けて、明治2年(1869年)に社名を安弘見神社、祭神を建速須佐之男命へ改めた。
『日本書紀』の素戔嗚尊ではなく『古事記』の建速須佐之男命としたのは何か意図があったのだろうか。
 スサノオは様々な名前を持つことことからも分かるように、一人の人物の個人名ではない。
 だから、たとえば素戔嗚尊、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、武素戔嗚尊はそれぞれ別のスサノオとも考えられる。
 ただの須佐之男ではなく建速としたのは何か意味がありそうだ。

 安弘見神社がただの牛頭天王社でないのは一緒に祀られている祭神の顔ぶれからもうかがえる。
 志那津彦命(シナツヒコ)・志那津姫神(シナツヒメ)、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)というのは非常に珍しい組み合わせだ。
 風の神とされるシナツヒコ・シナツヒメを祀ること自体あまりない。
 伊勢の神宮(公式サイト)の別宮である風宮や風日祈宮(かざひのみのみや)で級長津彦命と級長戸辺命(シナトベ)を祀っているけど、それと関係があるのかどうか。
 稲荷神とされる宇迦之御魂神が入っているのはどういう経緯だろう。

 いろいろと謎というか秘めているものが多いというのが、この安弘見神社の印象だ。


 拝殿の上にヘビがいる。
 もちろん本物ではなく作りものだ。
 八龍と称していながら蛇というのもまた意味深だ。
 ここは蛇の一族の土地ということか。

 蛭川村はちょっと変わったところで、明治の神仏分離令のとき徹底的に寺院を破壊する廃仏毀釈を行った。
 それまで牛頭天王社(安弘見神社)の境内にあった瑠璃光堂(薬師堂)を破壊し、村内にあった寶林寺と普門院(普門庵)も廃寺としたのみならず、村人に仏教信仰を禁止するという徹底ぶりだった。
 いくら国の方針とはいえ、ここまでやったところは珍しい。
 これも南朝方への配慮と考えると納得がいくのだけど。
 冠婚葬祭はすべて神道式で行い、明治41年(1908年)には村の指導者と長崎県出身の井口丑二(いのくちうしじ)によって神国教(しんこくきょう)という新宗教が設立され、村人の大部分が信者となった。
 現在においても旧蛭川村村域に寺はなく、この流れが続いているのではないかと思う。
 蛭川の蛭は蛭子(ヒルコ)にも通じるし、この地区は何か他とは違った独自性を感じる。
 一見するとのどかな田舎風景が広がる平和な村だけど、その裏には何か……、いやいや、やめておこう。


 境内社もちょっと変わっていて、磐長比売命を祀る磐長社や筑紫社なんかがある。
 境内社なのにいろいろな神が祀られる寄り合い所帯となっていて、どうしてこんなことになっているのか、少し謎だ。


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 今年の秋に収穫した稲だろうけど、こんなふうにしているのは初めて見た。
 この地方の風習なのか、この神社だけなのか。


 茅葺き屋根の社も残っている。

【アクセス】
恵那駅からバスで35分 「安弘見神社前」下車 徒歩1分

【駐車場】
あり


 白山神社編につづく

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