
豊田市神社巡り第2回は挙母町にある挙母神社(公式サイト/地図)です。
豊田市が豊田市になる前は挙母市だった。豊田の豊田はトヨタ自動車から来ている。
いくら影響力が大きいからといって一企業の名前が市の名前にまで昇格する例が他にあるだろうか。
挙母は古くは衣とも表記し、”ころも”と読ませた。
衣以前に挙母という表記もあったようで、中世に衣になって、近世にもう一度挙母に戻したという経緯があったようだ。
”ころも”の由来についてはよく分からない。衣からすると織物などが関係しそうだけど、古くは挙母だとすると別の由来の可能性もある。
コブシの母ではちょっと意味が通らないけど、字は何らかの意味を持っているのかもしれない。

パッと見、すごい立派な神社という印象だった。
官社っぽい神社というのがあって、ここはそういう匂いというか雰囲気がある。
ただ、延喜式内社ではない。
社伝によると、文治5年(1189年)に、源義経家臣の鈴木重善が奥州に向かう途中で義経が討死にしたという知らせを受けて三河国のこの地に土着し、その後重善は大和国吉野から子守明神を勧請して祀ったのがこの神社なのだという。
同時期に、同じく義経の家臣だった篠田勝善と鈴木義宗もこの地住みついて、勝善は毘森神社を、義宗は金谷勝手神社を祀ったらしい。
しかし、この話を丸々信じるのは難しい。
確かに1189年に義経は奥州平泉で死去(6月15日)しているけど、義経は1185年頃から頼朝側の追っ手から逃れて西国をさまよった後、吉野にこもり、1186年には奥州へ逃れている。
それから3年も遅れて家臣がのんきに奥州へ向かったというのはちょっとどうなのか。
更に、どこで義経が討たれた知らせを聞いたのかは分からないけど、どうして西三河の挙母に土着したのだろう。この場所である必然が見えない。
義経家臣の篠田勝善と鈴木義宗も同じように挙母に居着いてそれぞれ神社を創建したという話もなんだか嘘くさい。
何故、義経の家臣たちは許されたのか。さほど重要な存在ではなかったのか、それとも三河のこの地が彼らを守ったのか。
西三河は源氏ともゆかりがある場所で、頼朝にとっても手が届かないような土地はなかったはずだ。にもかかわらず、義経の家臣が勝手をしても許された理由は何だったのか。
いろいろ分からないことが多い。
それと、挙母(衣)の地名は奈良時代にはすでに見られることから、遅くともその頃までには集落があったということで、挙母の中心神社がなかったはずがない。
にもかかわらず、延喜式内社とされる神社がない。国内神名帳は分からないけど、西三河の中心ともいえる郷に古い神社がなかったとは思えず、挙母神社の前身となる古社があったのではないかと推測するけどどうだろう。
鈴木重善が吉野から勧請したとされる子守明神は吉野水分神社のことで、これは延喜式神名帳(927年)にも載る古社だ(子守明神と呼ばれるようになるのは中世からで、『神名帳』には大和国吉野郡 吉野水分神社として載っている)。
鈴木重善が神社を建てると決めたとき(それが事実として)、何故吉野の子守明神を選んだのか。
更に分からないのが祭神だ。
現在の祭神は高御産巣日神、瓊々杵尊、栲幡千千姫命、天水分神となっている。
子守明神を勧請したというのなら天水分神が中心となるはずなのに、高御産巣日神が主祭神のように扱われている。
瓊々杵尊と栲幡千千姫命がどこからきているのかも謎だ。
この祭神の顔ぶれからしても、この神社は鎌倉時代から始まったのではなく、もっと古い層があるように思う。
神紋が三つ巴紋なのも不思議というか不自然な感じがして、この神社の本質が見えてこない。
更に深掘りすれば何か出てきそうだけど、今回はここまでとしたい。



樹齢650年を超えるという樟(クスノキ)が名物の一つだけど、ものすごく枯れていた。

奥まったところにある謎エリア。
何かを表しているようだけど、正体は不明。

いわくありげな何か。
このあたりは空気が重い。
表の境内は明るくて軽いのに、奥は暗い。
古層はこのあたりかもしれない。




天神も稲荷も全面的に子守感を出していて、子供の守り神の性格の強い神社となっている。

挙母の名を冠した神社ということで以前から気になっていた。今回ようやく行くことができたのはよかった。
ただ、その正体については謎が深まった。
【アクセス】
愛知環状鉄道「豊田市駅」より徒歩約15分
【駐車場】
あり

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