
岐阜県郡上市白鳥にある白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ/地図)を訪ねた。
中居は”なかい”と読むのかと思ったら”ちゅうきょ”らしい。
紹介順が入れ替わってしまったのだけど、最初に訪れたのが長滝白山神社で、阿弥陀ヶ滝荘で流しそうめんを食べて、阿弥陀ヶ滝を見て、その次に白山中居神社という順番だった。
白山中居神社は阿弥陀ヶ滝(地図)よりも更に奥まったところにある。
にもかかわらず、こんな場所にも集落があって驚く。小学校(石徹白小学校 )まであるくらいだからそれなりに人が住んでいるということだ。
もともと石徹白 ( いとしろ)集落は福井県側に属していたのが、岐阜県側に編入されたという歴史がある。
そのあたりの詳しい事情は知らないのだけど、”いとしろ”という音に何か感じるものがある。
このあたりの歴史は古く、旧石器時代の遺跡が複数見つかっていることから、相当古くから人が暮らしていたことが分かっている。
白山中居神社も創祀は縄文時代まで遡るとされる。
この土地は何か特別な場所に違いない。何がどう特別なのかは分からないけど、そう感じた。

入り口から大杉が出迎えてくれる。
とにかく杉が多い。
この杉というのも一つ鍵を握っていそうだ。


この大杉の門をくぐると本格的に神域に入る。

なんだろう、ここ、分からないと、境内を歩きながらずっと首をひねっていた。
よく分からないというか全然分からない。
1000社近く神社を巡ってきているので、ある程度自分の中で分類や分析ができるのだけど、この神社はデータベースの中でヒットするものがなかった。
私が知る他のどの神社にも似ていないし、分類不能なのだ。
どんな系統の神社かも分からない。
祭神は菊理媛神(キクリヒメ)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)で、社名に白山が入っているくらいだから白山信仰にゆかりの神社には違いないのだけど、本質はそこではないような気がする。
もっと根源的で、原初のカミマツリを伝える宮なのではないだろうか。
その正体が私には分からなかった。
神社を後にするまで分からなかったし、今も分からない。
分からないの他にもう一つ感じたのが異常さだった。
この神社は異常だ。正常ではないし、通常でもない。
違和感といってもいいのだけど、異常な点が多々ある。
鳥居をくぐって下っていくというのも珍しいけど、そんなことよりも空間がちょっとおかしい感じがした。
磁場が狂っているのか、空間が普通じゃない。当然のように携帯の電波は入らない。
居心地が悪いとかそういうことではないのだけど、日常空間とは明らかに違っている。
そのせいもあるのか、植物が異常に生長しているように感じられた。
生き生きとしているのはいいことだけど、生き生きとしすぎているのは異常だ。
感覚的な異常さ以外に、異常に人を惹きつけるというのもある。
越前(美濃)の山奥で、どこから行くにしても遠くて道は険しい。にもかかわらず、古くから多くの人がここを訪れた。
この神社に関わった人間を挙げると、その数と顔ぶれは尋常ではない。
景行天皇、日本武尊、仁徳天皇、雄略天皇に始まり、顕宗天皇、天武天皇、泰澄、聖武天皇、清和天皇、宇多天皇、木曽義仲、藤原秀衡、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家、徳川家康、徳川歴代将軍などなど、ビッグネームがずらりと並ぶ。
天皇や時の為政者たちがこぞってこの神社と関わりを持とうとしてきたらしい。
それは単に、古いとか由緒があるとかといったことを超えて、何か特別なものがあったからに違いない。彼らは何かを知っていたのだろう。御利益があるとかそんなことではなかったはずだ。


社伝によると、9,000年前に磐境に国常立尊を祀ったのが始まりという。
普通なら眉唾ものの話だけど、ここは信じていいのではないかと思える。
縄文時代に人が暮らしていたのであれば、必ず何らかのカミマツリを行っていたはずで、それが後の神社創建につながったというのは充分にあり得ることだ。
神社の創祀ということでは景行天皇時代という。
泰澄が白山中宮長瀧寺を創建したのが奈良時代初期の717年というから、あちらの歴史はずっと新しい。
その後、白山信仰が盛んになるとともに、この神社も白山色を強めていったであろうことは想像がつく。
中世には神仏習合していたようで、入り口の両部鳥居はその頃の名残だ。
しかし、これだけ古くて由緒のある神社にもかかわらず、『延喜式』神名帳には見当たらない。私が見落としているだけかもしれないけど、そうでないから何故なのかが気になるところだ。




神社西を石徹白川が流れており、境内を支流の宮川が横切っている。
ここが御手洗や禊場として使われてきたのだろう。
上に載せた大杉の門から出ると空間が元に戻ったように感じられる。
振り返ってみると、なんだかちょっと恐ろしいような場所だった。
多くの神社がそうであるように、今回も一期一会で、これが最初で最後の参拝になったかもしれない。
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