
アマ・ツアーその2は漆部神社(地図)です。
昨日紹介した甚目寺の西に隣接していて、ほぼ一体化している。
明治の神仏分離令で一応は分かれたことになっているものの、今も境内は共通で行き来も自由になっている。
拝殿が近代のコンクリート造なので新しい神社のような印象を受ける。
通説として、『延喜式』神名帳(927年)に載る海部郡漆部神社とされるも、果たして本当にそうかというと断定はできない。むしろ違う可能性は多分にある。
江戸時代は八大明神と呼ばれていた。
室町時代中期の1498年(明応7年)の記録に、「賀茂 住吉 春日 平野 祇園 松尾 貴船 稲荷」とあって、八大はそこから来ているようだ。
いつからそうなったのかは分からない。いずれも関西圏の神社なのが引っ掛かる。
神紋として陰陽勾玉巴紋と二葉葵紋がある。
二葉葵はおそらく賀茂社のものだろうけど、陰陽勾玉巴紋はどこから来たのか。
太極紋ともいい、陰陽思想を表している。
これを神紋としているところは少なく、お岩さんで知られる於岩稲荷田宮神社がそうだけど、他にもあるかどうか。
於岩稲荷田宮神社の場合は田宮家のものだから、純粋に神社の紋というわけではない。
二つ巴紋は八幡でよく採用されているとはいえ、それとはまた違う系統だ。
陰陽勾玉巴紋がこの神社の本質を示しているということだろうか。

ところで漆部神社のことをずっと”うるしべ”だと思っていた。
たいていの人はそう読むと思う。
しかし、現地の説明板に”ヌリベ”とあり、驚いた。”ぬりべ”だったのか! と。

主祭神は漆部連祖神の三見宿祢命(ミツミスクネ)としている。
えーと、どちら様でしょう?
聞いたことがあるようなないような。
これも”みみ”だと思ったら”みつみ”だった。
少なくとも耳の神様ではない。
説明板には「尾張開拓祖神天の火明命五世の孫」とある。
しかしそれはちょっとどうなんだろう。
『先代旧事本紀』では物部氏の系図の中で出てくる。
そこでは饒速日命(ニギハヤヒ)から数えて5世の孫ということになっている。
天火明命とは系統が違う。
神社側の認識が間違っているのか、何か根拠があって書いているのか。
三見宿祢命は第6代孝安天皇の側近で、漆塗りの技法を確立したことで漆部連の祖となったと、『先代旧事本紀』はいう。
それにしては祀られているところは少なく、この漆部神社の他となると、島根県の物部神社境内社の須賀見神社・乙見神社くらいしかない。
現在の漆部神社を延喜式内の漆部神社としたのは津田正生(つだまさなり)だった。江戸時代中期のことだ。
ただ、その後、津田正生は考えを改め、自説を否定している。
延喜式内の漆部神社に関しては様々な説があり、古い時代に廃社になったともいわれている。
八大明神の顔ぶれと、漆部連と、三見宿祢命と、延喜式神名帳が上手く結びつかない感じはある。
延喜式内社というのは、飛鳥、奈良時代から神祇官に属するいわば国立神社で、単に古さを示すものではない。
平安時代中期の時点で、漆部神社がどんな神を祀るどんな神社だったのかは分からない。
尾張国は121座121社で、一社で一柱の神を祀ることを基本としていた。なので、中世の時点で八柱の神を祀っていたとしたら、それは延喜式内社ではない可能性が高い。


拝殿が妙にきれいだけど、これは最近造営されたものだろうか。戦後間もなくという感じではなく、平成くらい新しいように思う。

隣に半ば独立した格好で鳥居と社がある。
二葉葵紋の幕が掛かっているから、こちらが八大明神の社だろうか。
なんとなくこちらの方がこの神社の本体のような気がする。

幕は去年の12月に奉納されたもので、まだ真新しい。


ぬりものの神としつつ、境内に塗り物感は感じられない。
漆塗りのものが何かあってもよさそうなのに。
あま市と漆塗りとは結びつかないのだけど、何か関連のものがあるだろうか。
甚目寺の隣は七宝焼きで知られる七宝町だから、そちらにつながっているといえなくもないか。
最後に個人的な感想というか印象を書くと、この神社にそこまでの古社臭さは感じなかった。
そこそこ古さはありそうだし、悪くはないのだけど、そこまででもない。
思ったのが、ある種の二重性だ。
陰陽勾玉巴紋と二葉葵紋はどちらも”二”がキーワードになっていて、尾張と物部の二重性も感じられる。
完全に尾張側ではないし、完全に物部側でもない。
社殿の造りとか、空気感もそうだ。
取扱注意でもないのだろうけど、この神社にビッグネームが絡んできていないのは何かあるような気もする。

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