甚目寺観音から始まるアマ・ツアー <その1>

 お仲間たちと連れ立って愛知県あま市とその周辺の寺社巡りをしてきた。
 名づけてアマ・ツアー。
 今回は総勢7名。アマ・セブン。
 まずは甚目寺観音(公式サイト/地図)からの出発となった。


 正式名を鳳凰山甚目寺といい、地元ではもっぱら甚目寺観音で通っている。
 真言宗智山派で、総本山は京都東山の智積院(公式サイト)。
 成田山新勝寺(公式サイト)や大須観音宝生院(公式サイト)などと同じ宗派だ。
 観音の名の通り、本尊は聖観音で、これが古い。
 寺伝によると、推古天皇時代の597年に、伊勢国の海人豪族の甚目龍麿(はだめたつまろ)が漁をしていたときに観音像が引っ掛かってきたのでそれを祀ったのが始まりという。
 その仏像は蘇我と物部が仏と神で争ったときに海に投げ捨てられた3体の仏像のうちの一つなのだという。
 同じ話が信州の善光寺(公式サイト)と九州太宰府の安楽寺天満宮(太宰府天満宮)に伝わっているので、まったくの作り話ではなさそうだ。
 その聖観音は十一面観音像の胎内仏となっており、十一面観音は秘仏で50年に一度のご開帳ということなので、なかなかお目に掛かる機会はない。
 ただ、ときどき特別ご開帳があるので(前回は2012年)、もしかしたら近いうちにご開帳があるかもしれない。

 当初は仏像を拾った甚目龍麿の名から甚目寺=”はだめでら”と呼んでいたものを、中世以降に”じもくじ”というようになったらしい。
 いわれてみれば甚は”ジン”とは読むけど”ジ”とは読まない。県外の人からしたら甚目寺は難読地名に入るかもしれない。

 ちなみに、尾張四観音というのがあって、これは徳川家康が名古屋城の鎮護として荒子観音寺、龍泉寺、甚目寺観音、笠寺観音の4つの観音寺を定めたことに始まる。
 大須観音から見て恵方に当たる観音寺で行われる節分会は大勢の人が訪れて盛り上がる。
 今年は荒子観音で来年2027年は甚目寺観音がそうだ。


 甚目寺観音のシンボルである南大門が修繕中で幕に覆われていて見えなかったのは残念だった。
 令和の大改修が行われていて、完了予定は令和8年12月31日となっている。
 今年の大晦日や来年の正月はかなりの人出になるんじゃないだろうか。

 甚目寺は天智天皇が病気になった際に祈祷をして病気が平癒したらことから勅願寺となり、最盛期は500坊3000人の僧がいたという。
 その後一時衰退していたものを平安時代に再興したと伝わる。
 重要文化財に指定されている南大門は、1196年(建久7年)に源頼朝が梶原景時に命じて再建させたものだ。
 頼朝の母は熱田社大宮司だった藤原季範の娘の由良御前で、頼朝も名古屋の熱田生まれという説があって尾張とはゆかりがあるのだけど、ここで頼朝の名前が出てくるのはちょっと意外にも思える。
 しかも、どうして梶原景時に命じたのか。
 梶原景時は桓武平氏の流れを汲む関東平氏で、幕府の有力御家人の一人だった。
 NHK大河『鎌倉殿の13人』で中村獅童が演じていた人物だ。
 この地方には縁もゆかりもなさそうなのに、どんな理由で頼朝は梶原景時を指名したのだろう。
 そもそも、頼朝はたくさんある寺社の中で何故甚目寺に関わろうと思ったのか。
 この話には裏があるのかないのか。何かちょっと引っ掛かるエピソードではある。


 手水舎がカエルなのはかなり珍しい。
 甚目寺とカエルにはどんな結びつきがあるのか。
 何の理由もなく思いつきでカエルにするはずはないので、何かあるのだろう。


 三重塔は1623年(寛永4年)に名古屋の両替商、吉田半十郎政次が寄進したもので、こちらも南大門と同じく国の重文指定を受けている。
 高さ28メートルと、三重塔としてはかなり大きなものだ。
 堂内には鎌倉時代作とされる愛染明王坐像が祀られているようだけど、外からは見えなかった。



 工事中ということもあって、境内は少し落ち着かない空気感だったのだけど、悪い気とか波動ではない。
 寺院臭さといったものは薄いところで、良くも悪くも日常的空間と地続きの感がある。
 閉じていなくて開かれている。
 良く言えば格式張っていないというか、威張っていない。それだけ親しみが持てるという見方もできる。
 大須観音もそうだけど、尾張四観音はどこもそんなふうだ。

(つづく)

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