桜の頃の渋川神社

 名古屋神社ガイドで市外編を始めていて、その最初が尾張旭市だった。
 尾張旭は高校時代から馴染みの町で、大学生になって車を買ってからはしょっちゅう行っていた思い出の場所でもある。
 ただ、当時は神社になどまったく興味はなく、尾張旭の神社を回ったのは2007年以降のことだ。
 旧現身日和にそのときのことを書いた。

 急な思いつきで始まった尾張旭神社仏閣巡りの第一段は渋川神社

 それから全部回るまで13年かかるとは思ってもみなかった。

 高龗社参拝で13年かかって尾張旭神社巡りが完結

 これが2020年のことだ。
 尾張旭の神社について書くに当たって、あらためて全部回ったのは先月、4月4日だった。
 回ろうと思えば簡単に一日で回れた。

 というわけで、今回は渋川神社編をお送りします。
 詳しい歴史については名古屋神社ガイドの渋川神社のページで。






 合格祈願を旭野高校に特化させてきている。
 このあたりでは一番いい県立高校だ。
 渋川神社の歴史を考えると受験の神様ではないのだけど。

【アクセス】
 名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約9分

【駐車場】
 あり

 公式サイト


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コメント

コメント一覧 (14件)

  • こんにちは。
    市外編の編集お疲れ様です。

    渋川神社についてですが、記事でも触れられているように坂庭神社の可能性が結構ありそうな気がしてます。天文年間の史料に印場が「印庭中荘 」と書かれていて、やはり印庭と坂庭は関連?

    加えて『尾張国内神名帳』の記載順は位置関係により規則的に配置されていると考えています。山田郡ですと、羊天神→坂庭天神→渋川天神→金天神→尾張戸天神 の順ですので山田郡北部の西から東へ書かれていると想像しています。そうなると、津田正生が述べるように坂庭=現在の渋川、渋川=現在の諏訪社というのはあり得そうな気がしています。

    • >kkさん

       こんにちは。
       コメントありがとうございます。

       澁川神社が坂庭神社で、諏訪神社が澁川神社と信じている人間は、津田正生と私とkkさんの3人だけかもしれません(笑)。
       印場、印庭、斎庭って、つながりそうでつながらないというか、澁川は蘇父川から来たとか、なかなかこうだと決めつけられないですよね。

      『尾張国内神名帳』の並び順って、微妙じゃないですか?
       前半は確かに西から東へになっている感じだけど、中盤から後半はけっこうぐだぐだな感じ。
       写本による違いもあるんだけど、大目天神と深河天神の間に大井天神が入っているということは、北区如意の大井神社は違うということになりそうだし、山口天神が最後から二番目ということは、瀬戸の山口八幡神社とは違うのか、とか。
      『延喜式』の神名帳もそうだけど、ちゃんと住所と祭神書いとけよって思います。

      • オオタさん、ご返信ありがとうございます。
        尾張国では風土記が失われてしまい、神社・古地名の位置が分からなくなったのが残念ですよね…

        私も当初、国内神名帳(国府宮威徳院蔵本)の配列には意味がないと思ってたのですが、よくよく見てみると延喜式よりは整っているかなと感じました。愛知郡の場合ですと、
        ・熱田大明神〜水向天神: 熱田神宮近辺
        ・成海天神〜氷上姉子天神: 愛知郡東部
        ・油江天神〜三田天神: 愛知郡西部

        成海→物部(=御器所?)→高牟(古井八幡の旧地とされる新栄のあたり?)→孫若御子(若宮の旧地?)→伊福利(不明)→日置→墓田→川原(鳴海八幡?)→氷上姉子

        あくまでも勝手な持論ですが、愛知郡東部では時計回りに配置されてる可能性が一応あるかもしれません。山田郡でどこまで通用するかは未知数ですが。。。笑

        • >kkさん

           こんにちは。
           社格の上位順は分かるとして、同格の場合にどう並べたかですよね。
           まったく無造作に並べたとは思えないんで、何らかの法則性や規則性はあるはずで、そうなると時計回りっていうのはありそうです。
           ただ、平安時代に和時計ってまだなかっただろうし、時間の観念も今も違っているし、方角の感覚も現代人とは違ったと考えると、時計回りという概念はなかったかも。
           当時の人たちの土地感覚というか、位置関係の把握ってどんなだったんでしょうね。
           山の上からは俯瞰できても、高いところがなければそれは無理なのに、なんとなく鳥目線も持っていた感じもするんですよね。
           それがけっこう不思議。

           ところで私がずっと気になっているのが、『尾張国内神名帳』の愛知郡従一位素戔鳥名神です。
           従一位という高位にもかかわらず『延喜式』神名帳にはそれに当たる神社が見当たらないし、それに相当するような神社もないんですよね。
           洲嵜神社なのか、古い時代に失われてしまったのか。
           kkさんは何か考えありますか?

  • こんにちは。

    素戔鳥名神ですか、悩ましい問題ですね。私が認識している『尾張国内神名帳』の写本は主に9つ(熱田座主如法院蔵本, 国府宮威徳院蔵本, 明応本, 大目神社本, 甚目本, 天野本, 正徳本, 天王坊本, 天文本)です。このうち素戔鳥名神を「従一位」としてるのは熱田座主如法院蔵本、明応本、天王坊本、天文本の4つで、他では全て八剣名神を一位としているようです。

    記載順から単純に考えると、熱田神宮摂社の素戔嗚社のことかと思うのですがどうでしょうか…。しかし上下千竃神社や御田神社が平安以降に熱田神宮へ移されたように、素戔嗚社がもとは別の地にあった高位の神社で、それが洲崎神社であったというのは面白い説であり得ると思います。

    • >kkさん

       こんにちは。
       返信ありがとうございます。

      『尾張国内神名帳』のオリジナル版って、平安時代末くらいに作られたんでしょうかね。
       知られている中では熱田座主如法院蔵本は古いのかな。
       素戔鳥名神がこの頃までに熱田に取り込まれているのはそうだとして、熱田皇大神宮と八劔名神の正一位に次ぐ従一位ということは相当な高位で、これがそう簡単になくなってしまうかというと疑問です。
       正二位の高蔵名神より上だし。

       八劔社や上下千竈名神も、取り込まれたとはいえ独立を保っているのに、素盞雄名神だけが小さな摂社になってしまうとも思えない。
       スサノオでいうと、南新宮社にその可能性があるでしょうか。
       あれは熱田神宮の中の唯一の朱塗りだし、一応独立を保った形になってる。
       ただ、南新宮社は一条天皇時代の1000年頃創建とされているから、そこから100年、200年で従一位までいくかというと、それもないかなと。

       そんなわけで、素戔鳥名神ってどうなってしまったんだろうと気になっているところです。

      • ご返信ありがとうございます。

        確かに素戔嗚を祀っている南新宮社の可能性は結構ありそうですね。社格は高いですが『延喜式』に載っていないので、創建年が11世紀(丁度『国内神名帳』が成立した時期?)というのもなくはなさそうです(式外社の可能性も少なからずあると思われますが)。

        • >kkさん

           こんにちは。
           コメントありがとうございます。

           素盞雄名神問題はとりあえず保留ですね。
           南新宮社は、名前からすると、ちょっと違うのかなとも思います。
           新宮っていうあたりが。

           またいろいろ教えてください。
           よろしくお願いします。

  • オオタ様

    追加で知ったことがあったのでお知らせします。何度もすみません。
    『尾張国内神名帳』のうち篠木村大字熊野の密蔵院に伝わる「明應本」(室町時代に熱田座主本を写したものらしい)という写本があるのですが、この写本に「渋川天神(”ソフ”)」とフリガナが符ってあることに気づきました。この写本で神名にフリガナが符ってあるのはごく一部で、山田郡では渋川天神のみなので、適当に付けたフリガナではなさそうです。これが事実だとすれば、室町期?の段階で渋川天神=蘇父川天神という認識があったとみてよさそうです。
    (明應本:https://dl.ndl.go.jp/pid/3365208/1/32)

    話題が変わって、山田郡の小口神社についてです。『尾張国内神名帳』の記載順では、和邇天神(=景行天皇社?)→小口天神→川原神社となっています。自論ですが、山田郡「川原天神」というのは平針の針名神社のことではないかと愚考しています。平針は天白川流域でなおかつ現在もあのあたりに「原」という地名が残っています。個人的に小口神社というのは長久手と平針の間のどこかにあったのではないかと推察しています(具体的には日進の白山宮などが候補?)。ご参考になれば幸いです(笑)。

    kk

    • >kkさん

       こんにちは。
       コメントありがとうございます。

       kkさんの指摘はいつも参考になります。
       遠慮せずにどんどん書き込んでください(笑)。
       私の知らないこともたくさんご存じだし、私にはない視点も持ってますので。

       澁川問題はなかなかやっかいですよね。
       普通、”渋”を”そふ”とは読まないですよね。
       でも、江戸時代の地誌では蘇父川天神になってますよね。
       これが不思議というか解せない感じです。
       ”そふ”でいえば祖父江との関連が思い浮かんだり、蘇父という字でいうと蘇民将来の父なのかと思ったり。

       川原神社って愛知郡じゃなかったでしたっけ?
       川嶋神社?
       延喜式内の川原神社が昭和区の川原神社ってのは私も納得してません。なんか違うと。
       平針の針名神社も、あそこって愛知郡なのか? という疑問もあって、ここでも愛知郡と山田郡の郡境問題があるんですね。
       針名神社は行ってみると立派でいい神社なんだけど、なんか違うと思います。
       あそこは移されているということもあるんだけど、新たに作られた神社って感じがします。
       天白区は重要な遺跡や神社が隠されてますからね。

      • オオタ様、ご返信ありがとうございます笑。

        川原天神と山田郡については結構ややこしくて、『尾張国内神名帳』によれば愛知郡と山田郡どちらにも「川原天神」があったようです(山田郡河島天神とも別で、山田郡川原天神は式外)
        個人的な意見としては、
        愛知郡の川原天神=鳴海八幡
        山田郡の川原天神=平針の天神(今の針名)
        かなと思っています

        山田郡の郡境問題は話すとかなりややこしいです。中世の文献に「八事迫」という地名が出てきて、この八事迫というのが山田郡から愛知郡へ編入された地域の呼称だという説があります。八事迫内の地名が『桜井文書』などに列挙されていて、ざっくり書くと「島田 菅田 上田(植田?) 平針 池庭(池場?) 赤池 和具(和合?) 下津(折戸?) 野方 岩崎 本郷 藤島  菱野 」などが八事迫内であったらしいです。ということは今の天白から日進のあたりは山田郡であった可能性が高そうです。

        kk

        • >kkさん

           こんにちは。
           あー、そうですね、山田郡にも川原天神があったんですね。
           延喜式に載ってないからノーマークでした。
           なるほど、となると、愛知郡の川原天神と山田郡の川原天神の関係性も気になるところですね。
           姉妹車のような関係なのか、それとも地名なのか。

           鳴海八幡は確かにただ者じゃない感じがします。
           どう考えても普通の八幡じゃないでしょうと。
           成海神社と関係が深そうで、それが川原天神だとすると、ナルミと川原の関係が何なのかですね。
           あと、川原天神で気になったのが、”カンハラ”ですよね。
           最初からそうだったのか、中世の写本のときにフリガナが追加されたのか分からないけど、なんでカンハラなんだろう。

           八事迫という言葉や地域は知りませんでした。
           神社とは関係ないんですが、ちょっと面白いサイトがありました。
           https://nobunagamaps.com/410yagoto.html
           北八事迫も含めると広大な地域ですね。
           天白区はやっぱり山田郡かな。
           八事は八重事代主から来てると聞いてます。

          • オオタ様、そのサイトを見てもやはり「八事迫」というのは結構広かったようですね。

            鳴海八幡宮がただの八幡ではないというのは同感です(笑)。あの神社には弥生期の遺跡があったり、樹齢1200年の楠木があったりと何かありそうです。以前お伝えしたように『尾張国内神名帳』の記載順は位置関係に基づいていると私は思っているのですが、墓田(津賀田)→川原→氷上姉子という書き方からしても鳴海八幡宮が川原神社というのはあり得る気がしています(位置的にも天白川の河口付近で、すぐ近くに今も「川原」という小字が残ってぃすね)。

            国内神名帳の国府宮本に振ってあるフリガナはいくつか怪しい点があって個人的には懐疑的に見ています。熱田を「ネツデン」と読んでいたり、渋川をソフカハではなく「シブカワ」(歴史的仮名遣いでは本来「”カハ”」とすべき)としていたりと…。とは言え、熱田座主本で川原天神が「訓原天神」(クンハラと読むのか?)となっているので、川原を「カンハラ」と読んでいたというのはあり得るかもしれませんね。

            kk

          • >kkさん

             こんにちは。
             鳴海八幡宮で思い出したのですが、去年、情報をいただいてました。
             https://dl.ndl.go.jp/pid/11038497/1/1
            「鳴海祭礼図」というのは江戸時代中期の1779年のもののようですが、この時代の関係者たちは「河原神社」という認識があったようですね。
             それが本当だとすると、河原(川原)と成海神社との関係はどうだったのかというのも、また重要になってきそうです。

             国内神名帳のフリガナについては確かにそうですね。あれって写したときに勝手に(?)フリガナを付けた可能性がありそう。
             だとすると、古来の読みではなく当時の慣例だったり、その人の感覚というのもあるかもしれない。
             訓読みなんて古いぜ、時代は音読みだぜ、みたいな。
             

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