サワサワ安弘見神社の続きです。
安弘見神社を後にしようとしていたとき、神社に集まっていた氏子さんらしき人たちもちょうど解散で顔を合わせることになった。
お昼どきで食べるところが決まっていなかったのでどこかないかと訊ねたところ、木野食堂と照寿庵を教えていただいた。
照寿庵はお弁当が2,500円くらいするというので木野食堂にしようということになったのだけど、木野食堂は日曜休みでやっていなかった。
それじゃあ照寿庵(地図)しかないねということで行ってみると、巻き寿司やちらし寿司などは1,000円前後だった。2,000円以上するメニューは一部で、そんな高級店ではない。
立派な民家の敷地内にあって、このお宅の人が提供するテイクアウト専用の寿司屋だ。
公式サイトを見ると、今年令和6年の4月にオープンしたばかりのようだ。
いきなり5人で押しかけて準備が出来ていなかったらしく、注文から出てくるまで20分くらいかかったと思う。
行く予定があるなら電話予約しておいた方がよさそうだ。
庭にテーブルと椅子が用意されていて、そこで食べさせてもらった。ビニールで覆われていてストーブもあるので、真冬でなければ大丈夫だと思う。
私はエビ天と味噌カツのミックス手巻き寿司をいただいた(1,080円)。どちらも揚げたて出来たてで美味しかった。
量が多いので3分の1は持ち帰った。
帰りは主人のお母さんらしき人が見送りまでしてくれて、なんだか田舎に里帰りした気分になった。
安弘見神社へ行った際は、照寿庵にも立ち寄ることをオススメします。
お昼を食べた後、この日最後の目的地だった白山神社へ向かったのだけど、ここでちょっとした不思議体験をすることになる。
安弘見神社から見て白山神社は600メートルほど北西にあって、車なら1、2分のところにある。
直接向かえば迷いようのない一本道なのだけど、照寿庵から向かったので方向感覚や距離感を見失っていて、ナビがいうんだから間違いないだろうとその指示に従って辿り着いたのが下の写真の場所だった。
道は細くなり、未舗装路となり、ついには完全なる山道となった。
いくらなんでもここじゃないだろうと車内で言い合ったのだけど、ナビではこの場所に目的地を示すGマークが出ている。
ちょっと見てくると言って私ひとりが車から降りて続く道の先まで行ってみた。
まさかこの先に白山があるんだろうかと思いつつ進んでみると、笠置山登山口という案内看板が立っていた。
なんですって?
白山がこんなところにないことは明白で、車に戻って報告すると、あらためてセットしたナビは全然違う場所を示した。ここから2キロ以上も離れている。
えー、なんでこんなところにセットされたんだろうと、皆で怪しんでいる中、ふと思い当たることがあった。
安弘見神社の参道を歩いているに、サワサワした気配があって、何かに取り憑かれそうと思わずつぶやいたということを安弘見神社の紹介ページに書いた。
ひょっとして、安弘見神社にいた何者かが私に取り憑いて笠置山に帰りたかったんじゃないのかと。
笠置山に行くというより帰るという言葉が思い浮かんだ。
それで私に取り憑いた上でナビを笠置山にセットして、なおかつ私を車から降ろして登山口の手前まで行かせたとしたら……。
車内ではそういうこともあるよと言い合っていたのだけど、あなたはこの話を信じるだろうか。
再セットしたナビに導かれ、どうにか白山神社(地図)に辿り着いた。
一時はあきらめムードになっていたので、見つけたときはホッとしたし喜んだ。
個人的にどうしてもこの神社に行きたい理由があったのだ。
安弘見神社のところでも書いたけど、恵那の蛭川というところは南朝伝説が色濃く残っている土地で、白山神社には南朝の供養燈のみならず、南朝神社まである。
尹良親王が訪れたという伝承が事実かどうかはともかく、南朝の関係者がこの地に流れてきて居着いたというのは本当ではないかと思う。
蛭川というのは、ちょっと普通ではない雰囲気というか気配があって、ある種の血なまぐささのようなものも見え隠れしている。
表には出ないだろうし、あまり障らない方がいい何かだ。
やや謎の石碑。
境内の空気は非常に落ち着いて鎮まっている。
村の鎮守としてしっかり機能している感じで、ここはとても居心地が良かった。
毒気が抜けているというかアクがなくてすっきりしている。
本殿は立派な覆い屋で守られていてよく見えない。
ちらっと見えた感じでは古くて良い社殿のようだ。
白山神社とはいいながら祭神がよく分からない。
創建時期も不明のようで、室町時代の1488年(長享2年)に社殿を造営した記録が残るというから、それ以前なのは間違いなさそうだ。
南朝の人間たちが流れてきたときにはそれなりの集落があったはずで、そうだとすると、この白山はそれ以前という可能性も考えられる。
その後、1543年(天文12年)と1611年(慶長16年)にも修造の記録があるそうだ。
墓石かと思ったのだけど供養塔だろうか。
ここには不破家とある。
蛭川には今村、不破、板津、林の有力な四家があったというから、不破家はそのうちの一つだ。
板津も修造のときの記録に出てくる。
この板津家は加賀板津氏の後裔という話があり、その関係で白山を祀った可能性もありそうだ。
最初何の社か分からなかったのだけど、もう一つの入り口に南朝神社の社号標があって南朝神社ということが分かった。
1441年(嘉吉元年)の南北朝の戦いで戦死した尹良親王とその子の英良親王を祀ったのが始まりという話はどこまで信じていいかは分からない。
尹良親王は後醍醐天皇の子の宗良親王の子とされるのだけど、公式の記録にはないことから架空の人物とされることが多い。
ただ、その伝承は作り話というには濃密すぎて、何らかの存在を信じる方が妥当に思える。
蛭川の白山神社を訪ねたい、いや、必ず行かなければならないと思った理由がここ、由井正雪を祀る由井神社だ。
由井正雪(ゆいしょうせつ)の本名は”まさゆき”で、私もまさゆきというまさゆきつながりというだけでなく、由井正雪のことはずっと頭の隅に引っ掛かっていた。
何か近しいものがあるような気がして。
江戸時代前期の軍学者で、慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者として知られる人物なのだけど、私が思うよりマイナーなのかもしれない。同行したメンバーは誰も知らなかった。
関ヶ原の戦いの記憶も薄れ始めた3代将軍家光の時代。江戸のみならず各地で仕事にあぶれた浪人問題が深刻化していた。
1651年(慶安4年)、家光の死をきっかけに、義憤に燃える由井正雪は浪人たちを救うべく幕府の転覆を計画し、仲間を集めて実行に移した。
しかし、直前になって身内から密告者が出て幕府の知れるところとなり、駿府の宿にいたところを町奉行に取り囲まれてしまう。
もはや手はなしと悟った由井正雪は宿屋で自刃。
捕えられた後に首を斬られ、駿府の河原でさらし首にされた。
一味や親族も次々に捕まり皆殺しにされてしまった。
知らなかったのだけど、由井正雪は南朝の武士の後裔らしく、その縁で南朝神社の隣に由井神社が建てられたんだそうだ。
由井正雪の首塚(菩提樹院)や供養塔などはあるけど、由井正雪を祀る神社というのはあまりないと思う。
蛭川に直接ゆかりはなくても、こうして祀ってもらえているというのはありがたいことだ。
私も参拝することができて、なんだか肩の荷が下りたような気になった。
憑きものも笠置山に帰してきたし、すっきりして帰路についた。
ここ白山神社で江戸時代に奉納された鎌が20丁ほど見つかったという。
鎌を奉納するというと、三河国三宮の猿投神社が思い浮かぶ。
あそこは日本武尊こと小碓命の兄とされる大碓命が祭神として祀られていて、左鎌を奉納する風習が今も続いている。
鎌といえば悪霊か何かを断ち切る象徴なのだろうけど、古い故事に由来していそうな気がする。
それも南朝と何か関わりがあるのではないだろうか。
恵那の神社巡りといいつつ、巡った恵那神社、安弘見神社、白山神社はすべて中津川市だった。旧恵那郡ではあるのだけど。
いろいろあって印象に残る恵那遠征になった。
とりあえず、恵那峡ランドはやっているようだったので、ちょっと嬉しかった。
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